ソースは補うもの。「面白さ」よりも「事実」を味わう哲学

アイキャッチ用_装飾と事実を対比 【思想の核】プレーンな哲学

コロッケにソースをかけるか、かけないか、この問いは、単なる味覚の話にとどまらず、私たちが世界をどう捉えているかという認識のOSの違いを表しているのではないか。最近、そんなことを考えています。

当ブログ「ぷれーんdeコロッケ」の根底にあるこの思想について、今回は少し掘り下げてみたいと思います。

お客様と観察者の分岐点

ソース派とプレーン派の対比

世の中の大半のコンテンツ(ドラマ、映画、あるいは製品)はソースがたっぷりとかかった状態で提供されています。ここで言うソースとは、「わかりやすい演出」「感動的なBGM」「誰が見ても高級とわかるブランドロゴ」のことです。

誤解してほしくないのは、私はこれを否定しているわけではありません。対価を払ってサービスを受ける「お客様」として、確実に美味しい(面白い)ことが保証されたものを選ぶ。それは、失敗を避けるための極めて合理的で賢い消費行動です。

しかし、私のような「プレーン派(ソースをかけない派)」は、少し異なるスタンスをとります。私たちは、客席で完成された料理を待つのではなく、厨房の奥や、素材の産地そのものに立ち会いたいと願う「観察者」なのです。

補わないという贅沢

ソース派の真意

私が愛するドラマ『グッド・ドクター 名医の条件』に、ある象徴的なシーンがあります。大切な患者を亡くした医師が、自宅のリビングで一人、放心状態で佇んでいる場面です。

そこに、同じ医師であり恋人であるパートナーがやってきます。彼女は、気の利いた慰めの言葉を何ひとつかけません。ただ隣に座り、そっと彼の手を握るだけです。しかし、その体温が触れた瞬間、彼が周囲に見せないよう守り通してきた「プロの仮面」が剥がれ落ち、静かに涙がこぼれ始めます。

彼は、悲しいから泣いたのではありません。信頼できるパートナーが隣にいたからこそ、泣くことが「できた」のです。

ここには、感情を誘導するBGMも、状況を説明するセリフもありません。わかりやすさを求めるなら、愛の言葉を語らせるべきかもしれません。しかし、その補わなさこそが、私たちにとっては最高の信頼の証となります。

言葉にしなくても、手を重ねるという事実だけで、二人の間にある絶対的な信頼関係は証明されている。ソース(演出)で味を足さないと伝わらないような関係性(素材)なら。最初から皿に出さないでくれ、少し極端かもしれませんが、これが私たちの偽らざる本音です。

あらゆるものに通じる素材への視点

この視点は、ドラマ鑑賞に留まりません。

例えば、F1(モータースポーツ)。派手なオーバーテイク(追い越し)だけを「面白い」とするのがソース派の楽しみ方だとしたら、私たちは走路外走行の厳格な判定基準や、チームの無線交信の裏にある戦略的意図といった、一見地味なルールと構造にこそ、レースの真実を感じ取ります。

あるいは、車選びや株式投資。ブランド力株価の短期的な動きに惑わされず、トルク企業の稼ぐ力だけを直視する。当ブログの他の記事でも、装飾を剥がした中にある「機能美」を重視する点は一貫しています。

違う世界を生きる面白さ

友人にこの話をすると、面白さのポイントがわからないと困惑されることがあります。無理もありません。私たちは求めている脳内物質の種類が違うのです。

ソース派の方々

カタルシス(感情の開放)共感という体験を求めている。

プレーン派の私

没入感(その場にある事実)発見という認識を求めている。

どちらが優れているという話ではありません。ただ、もしあなたが最近、何を見ても味が濃すぎて疲れるなと感じることがあれば、一度だけ、ソースをかけずに、そのままのコロッケをじっくり噛み締めてみてください。

そこには、作りて気が意図的に残したノイズや、言葉にならない行間の旨味が隠されているかもしれません。それは、噛めば噛むほど味が出る、スルメのような味わいです。

もちろん、ソースたっぷりのコロッケも美味しい。でも、たまにはそのままの不揃いな世界を愛でてみるのも、悪くないものですよ。

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