最近、『ヴィンランド・サガ』という作品を見ました。作品に対する世間の評判などについては全く知らなかったのですが、タイトルとサムネイルを見ただけで、自然と再生ボタンを押していました。
その中身はとても興味深く、ある種の「システム設計」の話でした。
この作品は、暴力というバグだらけのOS上で、いかにして正常な処理(平和)を返すか?という実験に見えました。
ここから先は、物語の核心(ラストシーンや生死)に触れます。未視聴の方はここでブラウザを閉じてください。
目次
詰みをひっくり返すための自己破壊
作中の知将・アシェラッドは、スヴェン王からウェールズ(故郷)の滅亡をとるかクヌート(主君)の死をとるかの二者択一を迫られます。
アシェラッドにとっては、どちらも「失ってはいけないもの」です。しかし、王の命令は絶対であり、論理的にはここで詰みでした。そこで彼は、自分の命というチップを即座にテーブルに叩きつけることによって、盤面ごとひっくり返す(王を殺す)という第3の選択肢を強制的に実行しました。
王殺しによる命令撤回
王を殺せば、ウェールズ侵攻の命令は消えます。
クヌートの大義名分
自分が乱心した逆賊になれば、クヌートが自分を処刑することで王の仇を討った英雄として即位できます。
これが彼が瞬時に弾き出した、自分一人の命でウェールズもクヌートも両方守るという最適解でした。
復讐というOSをアンインストールする
トールズが気づいたシステムの欠陥
トルフィンの父であるトールズは、作中最強の戦士でした。しかし、彼はある時気づいてしまいました。
「敵を殺しても、その息子が復讐に来る。その息子を殺せば、また孫が来る」
この暴力の無限ループの中にいる限り、どれだけ敵を倒しても問題は解決しない(平和にならない)という、システム自体の致命的な欠陥に気づいたのです。
トルフィンが学んだ生き方
トルフィンは父を殺され、アシェラッドへの復讐という暴力の連鎖の中で生きてきました。しかし、アシェラッドが死に、復讐の対象がいなくなったことで、彼は虚無を目の当たりにしました。
しかし彼は父トールズの言葉を思い出しました。「お前に敵などいない。誰にも、敵などいないんだ」
これは、相手から攻撃があっても、反撃をしないことで、暴力の連鎖を強制終了させるという、極めて難易度の高い解決策です。
トルフィンが学んだのは、暴力というOSの上で勝つことではなく、そのOS自体をアンインストールすることでした。だからこそ、彼は逃げることや殴られても殴り返さないことを選びました。負ける強さ、耐える強さという、常人には理解し難い領域へ行ってしまったのです。
トルフィンのやりたかったこと
トルフィンがやりたかったのは、世界平和という巨大プロジェクトの完遂ではなく、彼が影響を及ぼすことのできる狭い世界における平和の完遂でした。
もちろん、彼が剣を置いたからといって、世の中から戦争はなくなりません。しかし、彼が誰かを殺せば、その遺族という新たな復讐者が生まれ、彼を狙うでしょう。
トルフィンが自分のところで入力を止め、出力をゼロにすることで、自分の手の届く範囲の平和を守るという、現実的で地に足の着いた目的を果たすことができていたように思います。
世界は救えないが、手の届く範囲は守れる
トルフィンの不戦の誓いによっては、世界中から戦争をなくすことはできないかもしれません。しかし、彼の手が届く範囲においては、新たな復讐の火種は生まれなくなります。
まとめ
世界を一気に書き換えることは不可能でも、自分の人生から復讐の連鎖を作り上げないことはできる。「それで十分だ」と割り切る強さが、この作品の答えなのかもしれません。


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